2025年 09月 01日
私の履歴書③ |
今年3回目の投稿。コラムです。今回は(続)「私の履歴書」風。これといったコネもないなか、就職活動は奇跡的に2年で終えることができました。貯金が底をつくタイミングだったので、本当に運が良かったです。会社を辞めたので、平日日中はフルに使えたため、生活は一変しました。とはいうものの、高尾では授業だけではなく、会計教育センター(当時)でTAをさせてもらい、授業以外は常駐していたので、規則正しい生活を送っていました。長らく簿記に触れていなかったため、最初は質問にビクビクしていました。仕事は教育に限定されていたので、あれこれ考えずによい修業時代になりました。正課授業、資格講座、個別指導を集中的に経験できた貴重な2年間です。収入面の不安は尽きませんでしたが…。この間に、地元で集中講義を担当させていただいたのもよい思い出です。帰省の交通費が浮きました。社会人院生時代は、仕事と論文執筆だけで時間を使い果たしていたのですが、この頃は研究会にも顔を出すようになり、もっとも活動的だった気がします。教員公募もいっぱいエントリーしました。ほとんど書類で落ちましたが、地方を中心に面接によばれることもありました。結局、採用には至りませんでしたが…。金欠の就職浪人としては、交通費の出ない面接は苦しかったです。あと、学会参加も自腹なので、首都圏での開催以外は費用が捻出できない時期でした。夜行バスで行って、夜行バスで帰った記憶もあります。学会と言えば、JAAは平日が多いので、社会人時代は有休をとって参加していました。このような生活を送って貯金の底が見えてきた頃、定額のお給料をいただける教育補助講師のお話をいただいて、大変ありがたかったです。ただ、採用とともに就職も決まり、勤務は3ヶ月となってしまいました。短い間でしたが、お茶の水に通ったのもよい思い出です。図書館が使えたのがよかったです。就職活動とはわからないもので、同時期にいくつか採用をいただきました。都会>田舎という基準で大阪に決めました。「特別専任教員」という記載に、周りからやや心配されましたが、あまり気にしていませんでした。その後、初回2年任期(その後毎年更新)を終え、5年の任期制教員(更新なし)を経て、無期雇用の専任教員になるまでに7年を要するわけですが、兎にも角にもお嫁さんと一緒に新天地 大阪での生活が始まります。このとき30歳。
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by yangyi0312
| 2025-09-01 15:30
| 独り言









節目ということで、なんとなく書いてみました。コラムです。戦後生まれの父は年明けに傘寿。祖父は山口髙商出で朝鮮総督府の税務官史をしていたので、祖父母一家は山口を離れ、ソウルで暮らしていました。終戦時に祖母のお腹にいた父は、引き揚げ後に日本で生まれました。生前、引き揚げ時の話は聞いたことはないですが、持ち帰ったものは大層大事にしていたようです。広島が近いからなのか、学校教育も含め原爆に対する意識は比較的高い環境で育ったと思います。上京して、8月6日8時15分にサイレンが鳴らずに、黙祷もしないのかと思いました。街には、非核平和宣言都市と書いてあるのだから、このくらい意識してもよいだろうにと思った私はというと、9月1日が防災の日というのを上京して初めて知りました。私にとって関東大震災は教科書のなかの出来事だったので、地域差は大きいなと思いつつ、言い伝えることは大事だと思いました。この80年間、戦争をしていないというのは、とても素晴らしいことで、今後も続いてほしいと願ってやまないです。ただ、この平和を維持するためには、全方位にわたる努力をする必要があります。暴力に訴えるような国際秩序を生まないための弛まぬ努力が。よい面もあれば、悪い面もあるけれど、日本は素晴らしい国で、日本人は素晴らしいと思っています。いつ何時も驕れる者には歴史(失敗)から学ぶ力を養ってほしいと思います。そして、悲劇を繰り返さないためには、やはり言い伝えることが大事だと、ここ数十年の出来事を振り返っても言えるように思います。何が言いたいのかわからない抽象的な内容に終始しそうですが、悲劇を生まないためには、確かな情報と冷静な判断がどんな時代でも求められています。あと、倫理について考えよう。
年度末、新年度はもうすぐそこ。コラムです。今回は「交遊抄」風。人にちょっかいを出すことのない自分が、なんとなく部活の見学中にむしった草を投げた(ちょっかいを出した)相手がM君だ。1992年春のことである。お互いが無職の頃も含め、元日の夜に酒を酌み交わすのが恒例になり、少なく見積もっても20年以上になる。年に1回、地元の自分になる時間でもある。学校で連む友人は別だが、6時半集合の朝練に間に合うように、近所のセブンイレブンに毎日待ち合わせて学校に通った。とにかく、家が近いのである。そのため、毎年会場は、あの頃と変わらないM家のM君の部屋である。昨年末に親父さんが亡くなられて、今年は親父さんの話もした。M家へ遊びに行ったときに、部屋に怒鳴り込んで扇風機が飛んできたことを今でも覚えている。そういった印象とは裏腹に、几帳面な方で、日記を欠かさずつけられていたそうだ。最後の1冊は最期を見越したようなものだったと聞いた。毎日、人生に向き合う生活をされていたのだと感じた。シンプルに丁寧な生き方だと思った。45にもなると、日々のいろいろもあり、雑な生活を送りがちである。毎日を丁寧に生きていきたい。社会生活が長くなると、利害のない関係は貴重である。令和8年の元日もYM会談を楽しみにしている。
前期を終え、夏休みに入りました。コラムです。山口に戻って10年ぶりに再開したと思っていたら、4年以上も放置していました。今回も「私の履歴書」風。梲が上がらない、鳴かず飛ばずの会計士受験生活は、そのまま院試に持ち込まれます。会計目的や概念フレームワークに関心があったので、もう少し勉強したい気持ちがあったのですが、試験対策らしい試験対策もせず、何となく理解している理論と、4年間やっていた中国語で臨んでしまいます。結果、当然のように落ちます。そして、冬の院試を実施していた拓大に進学します。マスター時代は、試験や業績などのプレッシャーはなく、興味をもった専門書や論文を自由に読める時間を満喫していました。そんなこんなで、就職する意識もなく、このまま勉強していたいなぁとドクターに進んでしまいます。当時は2ヶ国語必須だったので、語学ができないのによく受かったと思います。博士に進学してからは、業績や学位を強烈に意識せざるを得ない状況(気付くの遅い)となり、好きなことをやるという感じではなくなっていきました。他大学で死ぬほど頑張っている院生が挫折して研究から去っていくのを横目で見ながら、自分はどうにもならないだろうし、ここらが潮時かなという結論に至ります。そして、ドクターを1年終えたところで、一般企業に就職しました。いつも通り、周りに相談することもなく、勝手に決めます。心からお詫びする次第ですが、相談してマトモな助言をもらうと人の勧めた人生を歩むことになるので、人生を左右する局面では自分勝手にするのが、よりよく生きるコツだと思っています。会社に入ってからは、新しいことに取り組む楽しさと働くことが苦にならない性格が相まって、いっぱい働きました。ここで得た技術や知識、会社員経験が、その後のキャリアに必要不可欠なものとなります。大学院はというと、1年の休学を経て復学することになります。会社を辞めて、研究に専念するよう求められましたが、その気持ちはなかったので退学を伝えたところ、休日に指導するので続けないかと勧められたので、社会人大学院生になりました。このご恩は一生ものです。働きながらの学位は諦めていたので、興味をもったテーマで自由に論文を書いて、満期退学しました。学位は未取得ですが、教員公募への応募が可能になったので、30歳まではチャレンジしてみようと思い、会社を辞めて、非常勤講師生活に入ります。このとき28歳。奨学金残高が約900万円。年金、健康保険と家賃で家計は赤字だったので、金銭的に厳しい時代でした。
2Q前半を終え、夏休みに入りました。コラムです。唐突ですが今回は「私の履歴書」風。小さい頃は喋り始めるのが遅かったうえに数字が好きだったようです。小学校に入学した頃は、無駄に難しい漢字を覚えまくったり、自転車を改造したりしていました。86年の年末時代劇スペシャル『白虎隊』で歴史好きに火がついてしまい、会津藩や長州藩の旗を作ってみたり、祖父のアトリエに篭って歴史本を漁ったり、史跡を巡ってみたり、それをまとめてみたり、ちょっと変わった子どもだったかもしれません。小学6年の頃は、毎日ノート半冊分以上を使うほど日本の歴史をまとめていました。数ヶ月で飽きてしまいましたが…。この辺りに研究者としての原点があるように思います。飽きっぽいところも含め。一方、ナウシカやラピュタ、BTTFやターミネーターをアホみたいに繰り返し観る普通の小学生でした。ビックリマンやミニ四駆もやりましたね。平均身長に数cm足りないくらいの身長ですが、3月生まれということもあり、小学校までは背の順で前から数番目の位置でした。とは言え、運動全般は得意分野で、徒競走も小学6年のときに足の速い順で組まれた回以外は1位だったと思います。組体操は中心の高い塔のてっぺんでした。緊張しましたが、なんとかなるもんだと思いました。中高は陸上部でずっと走っていました。特に中学時代は毎朝6時に家を出て朝練、夕方の練習が終わっても、夜に近所で練習していました。部活が盛んな学校で、まるで軍隊だったので、30分前集合が当然でした。高校に入って、世間のゆるさにカルチャーショックを受けたほどです。勝負所で力を出すための日常の過ごし方は、ここで学びました。高校時代は無気力でした。部活もほどほどにこなし、友達ともほどほどに遊び、何かに集中することもなく時間が過ぎていきました。受験を目的にした勉強が嫌で、勉強しないと決めてしまい、成績は何とか進級できるレベルでした。歴史好きなのに、そんな厨二病を発症して、日本史の授業でもろくに聞かずに後ろの席でトランプしていました。高校3年の夏休みに、唐突に自転車の旅に出たのは、パワーが有り余っていたのだと思います。生まれる4ヶ月前に亡くなった祖父が税理士で、昔から漠然と事務所を継ぎたいと思っていたので「会計」の文字の入った学科から中央大学に進学しました。1年目は大学そっちのけで、アルバイトに勤しみました。任されることがとにかく楽しかったのだと思います。社員ばりに情報収集しながら仕事してましたし、好きな勉強の原点に立ち返る機会になりました。あと、社会人以降の社畜気質が垣間見れます。ただ、ある程度仕事ができるようになって「バイトはバイト」という感覚を持てたのはよかったです。時間をこれ以上ここに費やすのは無駄だと思い、辞めました。大学1年の冬に公認会計士講座を受講することにして、水道橋の大原に通うようになりました。この頃から、新聞や本を読むのが習慣になりました。大学3年と4年の時に公認会計士試験を受けましたが、典型的な授業を受けるだけの受験生で、まともに試験勉強をしていなかったので、当然のように落ちました。絶対に受からない、授業に全くついていけない状態は、精神的に相当キツかったのですが、今となってはいい経験だと思います。失敗や挫折は、いろんなことを教えてくれるので貴重です。